リトリートと仕事は両立できるのか その④変化

【リトリート】
隠居。避難。また、隠居所。隠れ家。避難所。
仕事や家庭などの日常生活を離れ、自分だけの時間や人間関係に
浸る場所などを指す。
(デジタル大辞泉より)

 

6日間、会社から離れて仕事をしてみるというチャレンジング企画レポートも、いよいよ後半戦。今回は「変化」と題し、4日目までに起きた私の感覚の動きについて報告します。

過去記事はこちらから
その① プロローグ
その② 準備編
その③ デジタルデトックス

飛鳥を出た私は、次なる土地ヘ向かいました。前日は思い切って仕事をしなかったため、少し焦りが出ています。6日間で終わらせるつもりの仕事量は意外と多く、程よく残り5日間に配分しなくてはなりません。しかしそこは「脳が少しでもクリアになり、いつもより効率が上がっている」という前提での6日間ですから、何とか達成したいものです。

 

寒さをポジティブに捉えろ。

リトリートのために確保したのは、これまた古民家貸切のお宿です。レトロな商店街の中にあるカフェの奥には、「ここ全部いいんですか!?」と声が出てしまうような広い空間。3部屋ひとり占め、使い放題。庭を見ながらPC作業ができるなんて、これはなかなかに非日常感が味わえそうです。

早速仕事に取り掛かります。しかし折しも日本中が大寒波に襲われた日で、とにかく寒い。

見ての通り、「カラカラ…」とガラス戸を開けるとそこは外。

こうなったら寒さを感じることも「五感を使う」一環だとポジティブに自分にいい聞かせます。木造建築ならではの隙間風が、部屋の温度を下げようと灯油ストーブとせめぎ合っています。

コーヒーの温度がすぐに下がります。

寒さの中で、思いました。

「ほんの少し前の時代まで、日本人はこのようなスタイルで生活をし、文化や経済を生み出していた」

寒暖差をしのぐための衣服、清潔な土間や縁側のある建築、四季すべてを感じられるしつらえの庭、使い込むごとに家に馴染むタンスなどの家具工芸…
それらすべてが日本の自然風土に根差し、四季と一緒に心地よく暮らすための機能性が備わっているのが「昔ながらの日本家屋」であり、そこに暮らす日本人の「機能美の中で生きる」ことへの徹底したセンスこそが私たちの「文化」であると、身体で感じました。

会議室での学びの何倍、何百倍ものスピードで体が理解します。

世の名だたる経営者が、自然の中でスポーツをしたりバカンスを取ってもビジネスの成果が上げられるというのは、まさにこの感覚を身体で知っているからなのでしょう。
その数時間、恐ろしい速さで脳内の不要物が処理され、次なるインプットへの準備をスピーディーに完了させることの快楽と効果を知っているからこそ、仕事にメリハリを付けられる「リトリート(非日常への隠遁)」の時間を確保するのでしょう。

などと考えながら…
集中作業→小休止→集中作業→小休止をひたすら繰り返します。出発日からのデジタルデトックスのおかげで、不要なSNSチェックは一切なし。買い込んであった夕食を部屋で食べ、たまに刺すような冷気を感じに庭に降りて月を見上げ、眠くなるまで仕事をします。

 

ビジネス書が読めなくなった脳

翌朝は、ふすまを開けると雪景色。雪って目に優しいんだな、なんて考えつつ朝支度。

この日は移動ナシ、とにかく1日集中する日として設定していました。併設のカフェで朝ごはんをいただき、集中作業→小休止→集中作業→小休止のループを途切れさせずに続けます。身体を動かしていていないため空腹は感じません。気が付くと午後で、さすがに疲れてきたため大休止を取ることにしました。

お茶と和菓子を用意し、チェアに座って読みかけのビジネス書を開きます。

ここで、違和感を感じました。

昨日まで面白く読み進めていたビジネス書がまったく頭に入らないのです。不思議な感覚でした。書いてある文字は視界には入ります。しかし脳の表面で上滑りし、「理解」の層にスルッと入っていかないのです。まるで、幾重にも折り重なった自分の思考の層の動きが見えるかのように感じました。

ビジネス書を置き、読み直そうと持って来ていた夢枕獏「陰陽師」の文庫本を開きます。

舞台は平安時代。平安京の安倍晴明の屋敷で、庭に咲く花を眺めながら、ほろほろと酒を飲み、京で起きた不思議な事件について語り合う晴明と源博雅。

何度も読んだ小説なのに、先ほどのビジネス書とは正反対のことが起きました。言葉が脳内にダイブしてきます。そして脳裏に「縁側で酒を飲むふたり」「庭の桔梗とおみなえし」などのカラフルなビジュアルイメージがどっと押し寄せます。ひんやりとした秋の空気や、香りまで再現できそうでした。まさに五感を使って小説を読むという、久しく忘れていた快感が甦りました。

ビジネス書の「知識を得る/なるほどと思う」ための読書と、文芸作品の「言葉から脳内いっぱいにイメージを広げ、脳を遊ばせる」ための読書はこんなにも違う。

ビジネス書ではとにかく「スピーディーな納得感」が求められるため、日本語らしい婉曲な言い回しなどは極力排除されています。私が書いているこの文章も、曖昧な表現・情緒的表現はなるべく控え、現代のWEB文章に慣れた人の読みやすさを考慮しています。しかし文芸書には、美しい情景や登場人物の心の機微を推測するためのありとあらゆる手管が使われており、そのテクニックを磨き、発信し、読む人の感動を呼び起こすための文章を練磨してきた軌跡こそが「日本の文章・ことば」の歴史だと、改めて体感しました。

 

「出したい」の前兆

恐ろしいほど読書が進まなかった自分に驚き、少し混乱したためPC作業はストップ。日が暮れたので、地場産の料理が食べられるというお店に夕食を食べに行きます。少ない街灯の明かりが、暗闇の中途切れなく降る雪の白さだけを際立たせています。私がこの街にいて夜道をひとり歩いていることは、社内はもちろん、誰も知りません。

写真を撮る必要もSNS発信する必要もなく、ただ目の前のお酒と肴に気持ちを集中させます。数日間の「感覚への集中レッスン」のおかげで、いつもより味覚も鋭くなっています。アルコールの酔いが回りやすくなっているようにも感じました。しかしストレスのない状態で飲んでいるので、ほろほろする割に、飲むほどに頭の芯がシャープになっていきます。

宿に帰り、湯船につかって酔いを醒ますと急に「何か書きたい」「何か出したい」という欲求がふつふつ湧いてきました。宿にこもっていただけなのに、その日知った感覚が頭に甦り、たくさんのキーワードが繋がっては離れ、また融合し、まるで脳内に雪の結晶が浮遊しているかのように感じました。

せっかくなのでそのまま深夜まで書き仕事。

この日で相当、脳に変化が起きていたようです。
それを認識したのは翌朝のことでした。

 

時間感覚の欠落、そして異次元の入り口を覗く

4日目の朝8:00、スマホが鳴りました。社内の定例会議が行われるSkypeグループからの呼び出しです。リトリート期間中の会議は出席不要になっていたのですが、Skypeの通知をオフにするのを忘れていたのです。

その日の呼び出し音はただのサウンドではなく、私にとっては外界からの久々のアクセスでもあり、想像以上にインパクトのあるものでした。数日間ナチュラルに遠ざけていた「リアル」の世界へ一気に引き戻され、また自分の脳が本気で大阪から遮断されていたことに気付き、急に恐ろしくなったのです。

「今日は金曜だったのか」「定例会議の日か」「私はこの数日、大阪のリアルから離れて何をしていたのだろう」
文字にするとバカバカしく感じますが、本当に混乱したのです。別に修行をしていたわけではなく、時計を見て、食事も食べ、しっかり寝て、ときにボーっとし、お風呂に入り、あくまで日常の延長上で過ごしているのに。

いつもと違うのは「リトリート環境にいること」と「なるべく自分の感覚だけに集中して、リアル世界について考えなかったこと」だけなのに。

曜日感覚が完全になくなっていました。頭のどこかで「金曜」であると知っていても、それを自分事として捉えられず、「金曜」という事実だけを別の次元にポンと置いていたかのように感じました。

時間の中に潜っていた…とでもいいましょうか。そのときの私にとって時間・曜日などは、生活を区切る指標でも行動を決める条件でもなく、ただ「あるもの」であり、その中に自分が「ただ存在していた」…

24時間の中に時間概念すら見えなくなる大きなうねりがあり、その中に純粋に身を任せていた…という感覚です。そのうねりを可視化するために私たちは「何時」「何分」と名前を付けています。その名がないと生活ができないからです。しかし時折、うねりの中に飲み込まれてしまい、表層的な「時間という区切り」とは無関係な場所に運ばれることがあるとすれば、私はその体験をしたのでしょう。

非想非非想とか涅槃とか、仏教の禅定プロセスを示す単語が脳裏に浮かびました。涅槃の世界は人間には想像できない、といわれています。ブッダですら、涅槃という世界について「存在するともいえないし、存在しないともいえない」という曖昧な表現をしているくらいですから、まあ掴みどころもなく、自分の意志で到達できるような明確な場所ではないのは確かです。「涅槃」への入り口など普通の人には到底到達はできません。しかしリトリートや坐禅などを繰り返せば、「涅槃の入り口の方向を示す、看板の在処」くらいは分かるのかも知れません。

今回、坐禅や瞑想ではなく非日常で感覚を使うレッスンをしただけで、ちょっと違う次元の入り口を覗くことができたというのは、個人的にはとても面白い体験でした。

 

4日目の変化と、リトリート効果の核

この4日目の感覚の変化は、そのまま今回の「リトリートと仕事は両立できるのか」という問いのアンサーにもなりました。

次回の最終回レポートは、かなり観念的で雲を掴むような表現になるかと思います。しかしその不分明で理由の分からない状態こそが「リトリートの効果」の核であり、例え不十分であっても言語化したいと思える「理(ことわり)」だと思いました。

人知を超える、というと大げさでしょうが、時間に拘束され、ジャンクフードを食べて通俗的ストレスに悩む「凡人である私」にとって、この体験はまさに自分の脳の新境地を見た体験です。

とにかく4日目の自分の変化が怖かったのはハッキリ覚えています。

次回、「リトリートと仕事は両立できるのか」という人体実験で分かった、私なりの答えを書かせていただきます。

 

 

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