「禅」が理系企業の研修に採用される理由

「禅宗」には坐禅や茶道・永平寺や達磨大師など、他の日本仏教宗派よりもビジュアルイメージがしやすい要素が多くあります。しかしその教義の難解さにおいては他の宗派を大きくしのぎ、「禅問答」という単語が「理解できない問い」という意味で使用されるようになっているほどに、禅の教えを知ることは容易ではありません。

しかしなぜ「ZEN」は外国人の心を捉え、世の経営者たちは禅寺に通い、スティーブ・ジョブズは坐禅をしたのでしょうか。

それは禅が「庶民のために噛み砕かれた汎用性高い教え」ではなく「そぎ落とし、分析し、人の本質を見抜く過程」に迫る、知的水準の高いアプローチを求めるものだからです。

禅が目指すのは、ブッダの悟りプロセスの解明

仏教とは簡単に言うと
「ブッダという優れた哲学者が、人は幸せになるために《こうしたらいい》という基本的な行動指針をまとめ上げた」
ハウツーメソッドです。

日本は大乗仏教の流れを汲んでいるため「大きな船に一緒に乗ろう(皆で幸せになろう)」という理想を持っており、庶民でも唱えることで救われる「念仏」など、文字が読めない人や教育を受けていない人までもが救われるという汎用性の高い方法論が広く普及しました。

しかし「禅」は少し違います。禅の教えは、浄土に行くためでも救われるためでもなく、「その汎用性の高い教えの基礎にたどり着いたブッダという特別な存在の、悟りのプロセスを解明する」ことに焦点が当たっています。

「仕組みを知らない人間でも使える、素晴らしいテクノロジー」の取り扱い説明書がお経・念仏だとしたら、
禅の修業は「そのテクノロジーを生み出した未知の仕組みに、少しでもにじり寄る」ために行われているのです。

禅の難解さも面白さも、まさにそこに凝縮されています。
禅が理系の人間や経営者に広く受け入れられている理由は、禅が「本質に迫り、解明する」という人間の根源的好奇心の究極形であるということで説明できるでしょう。

また、その解明には大きな快感も伴います。
「わかった!」という瞬間の天啓にも近い快感は、大小あれど誰しも経験したことがあるでしょう。

つまり仏教の本質に近づくこととは、脳の知的快感を追求することでもあるのです。

「ただやってみる」に本質がある禅体験研修

曹洞宗に「只管打坐」という言葉があります。
これは「ただ坐る」という意味を持ち、それ以上でもそれ以下でもありません。
しかしこの「坐ることになりきる」ということすら、普通の人間にはなかなかできないものです。

頭で「こう坐ればいい」「こう工夫すればいい」などと考えているうちは「只管打坐」の入り口にも到達しません。

日頃頭をフル回転させて仕事をしている人にとっては「わざわざ坐るために研修をするなんて」全くばかばかしく感じられるでしょう。しかし2500年受け継がれてきたテクノロジーの根幹に「ただ坐る」ことでたどり着ける可能性があるのなら、脳の可能性を信じ、まずは「ただ坐ってみる」ことをおすすめします。

同様に「作務」「精進料理」「公案」など禅研修の中で体験するものは、「まずやる」という、理論や理屈を超えたところから始まります。
また体験から、ネットで得ただけの薄い知識と、自分の深層に潜り込んで見えた知識との差を明らかに感じることもできるようになります。
その結果、きちんとプロセス踏み自己と向き合った人からものごとの本質を素早く見抜く力や現実対応力・問題解決力が身に付き、環境の変化に対応できる強い人材を育成することが可能となるのです。